家族

天才音楽家として、現在でもその名を残しているベートーベンです。 一般的に「天才」と呼ばれる人たちは、一筋縄でいかない性格であることが多いですが、ベートーベンも、とても個性的な性格をしていました。
ベートーヴェンの家族
祖父:ルートヴィヒ ベルギー出身(ボン選帝侯宮廷楽長の他ワイン販売業も行う)
祖母:マリア・ヨゼファ 父 :ヨハン
母 :マリア
弟 :ニコラウス・ヨハン・ヴァン・ベートーヴェン(1776年-1848年)
弟 :カスパール
甥 :カール(カスパールの息子)
ベートーヴェン家は孫と同名の祖父、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンが ベルギーから移住して来て、選帝侯ケルン大司教(カトリック教会のドイツ、ケルン教区の首長) の宮廷楽団の歌手となってドイツで成功を収めたフランドル系の一家だった。
ベートーベンは、宮廷歌手として成功を収めた同名の祖父ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーベンの代からの音楽家の家系に生まれました。しかし、父のヨハンは祖父の名声や稼ぎに寄りかかって生きているような典型的ダメ親父だったようです。
祖父が没し、収入が減少するとヨハンはベートーベンを少年音楽家として売り出し始めます。ヨハンは、息子をモーツァルトのような天才音楽家にしてその稼ぎで自分を養ってもらうことを目論んでいたのです。
「息子を働かせなければ負けだと思っている」ニートな父ヨハンのスパルタ教育とプロデュースの日々の中で、ベートーベンの心の支えとなっていたのが母マリアでした。
音楽家の家系に生まれ、幼い頃から音楽の喜びや楽しみを知っていたベートーベンであっても、父ヨハンから強要される「家族を扶養できるだけの音楽家」としての大成は、重圧以外の何物でしかなかったのは確かでしょう。
そんなベートーベンをやさしく受け入れ、まっすぐに育ててくれたのが母マリアだったのです。母マリアの存在はベートーベンにとって幸いであったといえます。 自己実現のために子供の教育に熱心な親は、父親・母親がそろって子供の教育に熱中することがほとんどだからです。
しかし、そんな心優しい母であったマリアも、ベートーベンが16歳の時にこの世を去ってしまいます。 俗に、「息子は父親に似てくる」と言われます。
顔立ちなどの身体的特徴が母親似であっても、行動や性格は父親に似てくるものです。男性は「父性」、女性は「母性」を自分の親から学ぶものです。 「虐待を受けた子供は親になると子供を虐待する」というのは、親から学んだ父性・母性が虐待を含むものだったからなのです。
ベートーベンの父ヨハンは典型的な放蕩者で、わずかな稼ぎも呑んでしまうため家計は困窮していました。ベートーベンが「このような父のために、母は夭折してしまった」「家族を不幸にしないためにも結婚をするべきではない」という考えを抱いていても不思議ではありません。
しかし、ベートーベン自身も晩年には後継者と見込んだ甥のカールにスパルタ式の音楽教育を施し、カールの養育権で親族と争っています。 「子供の才能を磨きたい」と言うのは音楽家共通のエゴであると言えますが、ベートーベンは知らず知らずのうちに父親に似てきていたのです。
ベートーベンは幼い頃から、ニート同然の父の代わりとなって家族を支えてきました。 中でも次男のカスパール(資料によってはカール)はベートーベン最愛の弟でもありました。しかし1815年、カスパールは41歳の生涯を閉じます。
カスパールが残した遺言状では、息子カール(資料によってはカール二世)の養育権をベートーベンとカスパールの妻ヨハンナの二人が共同で持つとされていました。 カールの養育権を単独で取得したかった伯父ベートーベンと、お腹を痛めて生んだ実母ヨハンナの間で訴訟が発生します。
この養育権争いは、ベートーベンとヨハンナだけのものではなく、末弟ニコラウス・ヨハンやベートーベンの音楽仲間を巻き込んだものとなり、最終的にはベートーベンが養育権を単独で勝ち取ることになりますがこの訴訟を行っていた時期のベートーベンは、慢性的な腹痛などもあって作曲活動を満足に行えていなかったようです。
ベートーベンは、カールに正式な学校教育を受けさせゆくゆくは自分の跡を継いでもらいと考えていたようです。しかし、カール本人にしてみれば、伯父の愛情はいささか重いものであったようです。
父カスパールが病没したのはカールが9歳の頃のことで、まだまだ親に甘えたい盛りの時期です。そんな時期に今までと違う生活環境を伯父に突然強要されたのですから、たまったものではありません。
ベートーベンによって通わされることになった学校をたびたび脱走しては、母ヨハンナの元に帰っていたというエピソードが残されています。 学校生活だけならまだしも、ベートーベンの弟子だったツェルニーからのピアノレッスンも受けさせられていたので、カールにとって心休まる時はほとんど無かったのです。
伯父であるベートーベンの偏愛によって、生活や願望を抑圧されたカールは徐々に精神の均衡を失っていきます。 大学中退やベートーベンによる監視と言った生活の崩れの中で、カールは絶望の淵に立たされていたのです。
1826年、腕時計を質草にしてピストルを手に入れたカールは、バーデンで自害を試みたのです。 幸い一命を取り留めたものの、カールは目的を遂げたと言えます。 この事件を知ったベートーベンはひどく狼狽し健康を崩してしまうのです。
ベートーベンは、この事件以降カールの進路に対して口出ししないようになったのでした。 ベートーヴェンにとって家族というのは、失うばかりで得ることはなかったようです。
彼は若くして両親、弟妹を失い、その死とも直面してきました。 家族というものが寄り添い合って生きる家庭の暖かさというものを、十分に味わうことなく成長したベートーヴェンは、家庭の団欒に渇望していました。
年齢からいっても、その希望を果たすのは不可能と思わざるを得ない時期にさしかかっていました。 彼は日常の周囲に伴侶を見つけることはできなかったのです。
芸術家ベートーヴェンの肩書きをはずし、一介の男とみた場合、その日常に容易に見つかる素行は、ヴィーンの娘たちの目には奇癖に映っていました。
貴族の女性たちは芸術家ベートーヴェンに敬意を払ったが、身分の壁と娘心の虚栄は人間ベートーヴェンを結婚の対象とはみなかったようです。 ヴィーンにやってきた二人の弟は、兄ベートーヴェンからみれば意に反した結婚をして独立していきます。
一人は素行の芳ばしからぬヨハンナであり、下の弟は娘を連れ子にしたテレーゼでありました。 両人ともベートーヴェンのお眼鏡にかなう義妹ではなかったのです。 ベートーヴェンには二人の弟も、家庭の団欒を得ているようには見えなかったのです。
そんななかでただ一人、ベートーヴェンの胸に飛び込んできたアントーニアとの夢は、結局実らなかったのです。 自分の力で家庭を得ることができなかったベートーヴェンは、その血を受け継ぐ甥のカールをとおして、家庭への強い幻想を抱くことになってしまったようになりました。
一一月一七日、次弟カールの遺書は、弁護士によって貴族裁判所に供託されました。 二二日に貴族裁判所は、母親ヨハンナを後見人に、伯父のベートーヴェンを共同後見人に指名しました。
共同後見人は甥のカールの財産を管理し、教育について母ヨハンナを補佐し助言する権利と義務を負うというものです。 だがこの決定に不満であったベートーヴェンは、一一月二八日に後見人をベートーヴェンのみに指名することを貴族裁判所に請願します。
裁判所がその根拠となる証拠の提出を求めると、ベートーヴェンはヨハンナが一八一一年に夫カールにたいする金銭上の横領を訴えられ、一ヶ月の自宅監禁の警察罰を受けていることを証拠として提出します。
夫婦間の些細な金銭トラブルを持ち出して、ヨハンナを後見人不適格者とみなし、ベートーヴェンは貴族との人脈を使って当局を画策します。 一八一六年一月一九日貴族裁判所は、ベートーヴェンを単独の後見人とする決定を下しました。
ベートーヴェンはヨハンナから息子を取り上げると、一八一六年二月二日に甥のカールをジャンナタジオ・デル・リオが経営する寄宿学校に入学させたのであります。
だがまだ九歳の甥カールの立場で見れば、父の死に動揺しそれでなくとも肉親の愛情が必要なときであったに違いません。 そしてこれから思春期に向かう大事な時期であり、家庭のぬくもりは甥のカールにこそ必要だったのです。
与えなければならないものを与えないばかりか、逆にカールから奪ったという点で、ベートーヴェンはカールに二重の過ちを侵していました。 伯父であり義兄であるベートーヴェンは共同後見人として、ヨハンナ母子の生活が成り立つように配慮しながら、精神的な支援に止めるべきであったのです。
家族事情
弟カールが追記した遺書の眼目もそこにあったのです。 遺書の最後で「・・・・・・したがって私は私の子どもの幸福のために、私の妻には従順になることを、兄にはもう少し抑制することを願うものであります。」という弟の危惧は現実のものとなります。
ベートーヴェンは裁判所の決定を楯に、母ヨハンナが息子カールと接触することをことごとく妨害します。 ジャンナタジオにも言い含め、息子との面会を妨げるのでありました。
家庭への憧れが叶えられない望みであればあるほど、その代償を求める気持ちはベートーヴェンのなかに、大きな幻想となって広がっていったに違いないでしょう。
だが訴訟となればその手続きから弁論まで、弁護士が間に立つとはいえ当人も繁雑な事務や審問に煩わされ、本来の創作は中断せざるを得なかったのです。 費用もかかります。 こうした事情も、創作を遠ざける原因を作っていたのであります。