晩年

後期の作風について、様々なベートーヴェン研究家が論じている。

「無時間性、破格の自由、抽象化、魔術的関係づけ、両義性、カンタービレ的要素、」(ダールハウス)、「変奏曲とフーガへの傾倒、自由化、幻想の飛躍と緊密な構成、カルテット志向、革新の歩み」(門馬)、「宇宙、総合」(メルスマン)、「宗教的なものの影が濃く射しこんできた」(吉田)。

これらの指摘の中で、最も明瞭に認められ、また第九交響曲とも関連の深い特徴は、カンタービレ的要素、自由化と宇宙的響き、ポリフォニー(特にフーガ)の多用ではないでしょうか。

メルスマンは、ベートーヴェンにおける“宇宙”という概念について、以下のように述べています。 「今までの創造者ベートーヴェンやこれまでの音楽の発展段階と音楽を結びつけていたものが消えてなくなり、彼の音楽は透明になっていきます。

そして音楽を通して光り輝いていたものは、計り知れないもの、超越的なもの、宇宙的なものになっていき、音楽を創造するということ自体が変わるのです。」 宇宙性が最も顕著になるのが、第九交響曲の中では、第2楽章であります。

変奏曲によるカンタービレ的要素は、第3楽章に豊かにみられるし、第4楽章には立派な2重フーガがあり、2分の3拍子のAndante Maestosoの部分には宗教的な世界の表現があります。

ただ、第九交響曲の中で、第4楽章は、さまざまな様式が混在しているとも考えられます。

主題の徹底的な展開による英雄的ソナタ形式から、統一性を保ちながらも、より自由なカンタービレ様式への変遷については、「苦悩から勝利へ」という流れを超越したベートーヴェンにとって、必然的な変化ではないでしょうか。

自己実現という概念の重要性を述べていたマズローは晩年に、 「超越とは、人間の意識の最高の、最も包括的で、全体論的な水準を意味するものであります。

その行動や関係は、自己、特定の相手、人類一般、他の種族、自然、宇宙に対して、手段としてよりむしろ、最終的な目的として、とり組むのである。」として、自己超越を自己実現よりも高い位置に置いています。

マズローは、人間の欲求や関心よりもむしろ、宇宙そのものに中心を置く心理学としてトランスパーソナル心理学を提唱したが、自己超越の問題に関連して至高体験について、以下のように述べています。

「至高体験は、単に時空を超越しているというだけではない。それらは比較的達観し、人の利害を超越しているというだけではない。それらはまた、みずからは『彼岸』にあるかのように、人間臭を脱し、自分の人生を超えて永続する現実を見つめているかのように、認知し反応するのである。」

至高体験に関連が深い概念として、スビリチュアリティがあります。

スピリチュアル(spiritual)という言葉については、 1999年wHOの総会で、 physical (身体的)、 social (社会的)、 mental (精神的)に次ぐ4番目の側面として導入が検討されていることもあり、近年その重要性が確認されてきています。

1990年代から、医学・心理学において、スピリチュアルをキーワードにした論文は増えてきているが、また同時に、メディアによりあまりに容易に使われているために、本来の意味が見えなくなっている傾向があるように思われます。

トランスパーソナル心理学の第一人者と目されていたウィルバーは、 1983年以降、自分の仕事を統合心理学として、トランスパーソナルとは峻別していたが、「スピリチュアル」という言葉の4つの意味について、以下のように述べました。

(1)スビリチュアリティとは、至高体験ないし意識の変容状態を前提とする。

(2)スビリチュアリティとは、それぞれのラインの最高の段階を指す。 (なお、ウィルバーの言うラインとは、流れ(ストリーム)と同義で、個人は 様々な異なる発達の流れ、つかり認知能力、モラル、情動、欲求、性、動機、自己同一性などの束で、束ねているのは自己(システム)であるとされている。)

(3)スビリチェアリティとは、他のラインとは区別された独立のラインである。

(4)スビリチュアリティとは、愛、信頼など、いわゆる精神的な態度・姿勢である。

スビリチェアリティは前述したように、霊性と訳されることが多いが、森山は精神病理学における霊性という視点の重要性を以下のように指摘しています。

「精神の病の場合、同時に霊性の危機が訪れ、必ず『生きがい』が問われ、有神論者・無神論者を問わずその病的体験に『神』ないしは『超越者』が出現してくる。治療者である精神科医は、患者のこうした問いから免れることばできないものである。

精神医学は、霊性(魂)の救済の医学でもあることを要請されてくる。」 また皆藤は、人間存在の不確実性に対して、現代人が向かおうとする二つの方向性として、宗教と宗教性(精神性や霊性と言い換えることもできる)があり、心理療法に宗教性が機能しないとき、心理療法はきわめて窮屈な自我的関係に固執してしまう、と述べています。

この森山や皆藤の指摘は、希死念慮への対処、ターミナルケア、さらにはPTSDの治療など、人間存在の基盤が問われるような状況で、クライエントのみならず治療者にとっても、今後ますます重要なものになっていくと思われる。

マズローは、大きな喜びや快惚感、別世界からの姿や別次元の生活をもたらす至高体験は、しばしば古典的音楽一偉大なクラシックから生じているとして、しばしばクラシック音楽の代表としてベートーヴェンの名前を引用しています。

ベートーヴェンは、聴覚障害という悲劇の克服を、英雄的ソナタ形式の確立によって、成し遂げました。 すなわち、それは異なる性格の主題の徹底的な操作により、新しい次元の音楽を展開させていく方法でありますが、しばしば「苦悩から歓喜」への流れとなりました。

ベートーヴェンは作曲のイデーが突然、散歩中や会話の最中に彼を襲うと、ベートーヴェンは忘我状態になったと言われています。


霊性の強かったベートーベン

ベートーヴェンはそのような作曲の仕方について、次のように友人のベッティーナ・プレンクーノに話したと、ベッティーナは1810年にゲーテへの手紙の中で書いています。 「わたしは感激の焦点に立って、あらゆる方向にメロディーを放射しなければならぬのです。

それを追求し、激情をもって再び抱きしめる、 それが遠ざかってゆき、多様な興奮のむらがりの中に消えてゆくのを見ます。 間もなく新たな激情がそれを抱きしめ、わたしとそれが分かち難いものとなる。

束の間の伏惚状態にあって、あらゆる転調を行いそれを多様化しなければならぬのです。 そしてついに最初の楽想を超え凱歌をあげるのです。御覧なさい。それが交響曲です。」 ベッティーナの手紙にあるように、ベートーヴェンの作曲は霊感に満ちたものであったことが推測されています。

これまでの作品は、交響曲第3番「英雄」、第5番、ピアノ・ソナタ第23番「熱情」などで象徴されるように、主題を分解し、徹底的に展開させる英雄的ソナタ形式であったが、ベートーヴェンはその技法の可能性を徹底的に使い尽くした結果、主題の旋律性は損なわれ、ベートーヴェンの創造上の危機が訪れました。

平野は、ベ-ト-ヴェンの様式区分を7期に分けて、1809年から1812 (1813)年をカンタービレ様式期(第5期)、 1814年から1816年をロマン主義傾斜期・スランプ期(第6期)、 1817年以降を孤高的様式期(第7期)としているが、カンタービレ的性格への傾斜は、 1812年以前にもみられたものの、晩年の様式のような魂の澄んだ探さはなかったのです。

1812年から1818年に至る、ベートーヴェンの創作史上、最も実り少ない時期において、最も重要な問題であったのは、甥カールの後見人であることを獲得するための奮闘でありました。

この時のベートーヴェンのカールとその母親ヨ-ンナに対する判断は、 1826年のカールの自殺未遂で象徴されるように、誤りが多かったことが明らかにされていますが、ベートーヴェンにとって、マイナスの要素だけではなく、小松が指摘するように、恋愛ではない愛情の大切さをベートーヴェンに改めて体験させた貴重な年月でありました。

1824年にマインツの出版社あてに、 「アポロとミューズの女神たちは、わたしをまだ骸骨の死神に渡しはしません。わたしはまだ彼らにたくさん借りがありますし、神々の楽園に向かって旅立つ前に魂が啓示し、命ずる処を完成しなければならぬのです。」 と書いています。

晩年のベートーヴェンは、まさに神の命を感じながら作曲に向かっていたのでありまする。 晩年のベートーヴェンの緩徐楽章にみられる優しく慈悲にあふれた歌や、フーガやスケルツォ楽章にみられる宇宙性を感じさせる表現は、まさにスビリチュアリティにあふれたものであり、人々に愛と希望を与えるものであります。

超越性や宇宙-の視点が、存在不安に対する大きな支えであることを考える時、ベートーヴェンが晩年に到達した境地の深さに、我々はどれだけ感謝しても、しすぎることはないでしょう。