作風

ベートーベンの作風は、様々な音楽家から学んだことを自分なりに解釈して作り上げたものであるといえます。 ベートーベンの楽曲には尊敬するモーツァルトやバッハ、師事したハイドンなどの音楽家の影響を強く受けている面があるのです。

ベートーベンはウィーンに上洛し、ハイドンに師事したというのが定説となっていますが、実際には手ほどきを受ける機会は少なかったようです。

ベートーベンがハイドンに師事した1792年は、ハイドンにとっても重要な時期でイギリスへの演奏旅行や代表曲の制作を精力的に行っていたのです。

そのため、弟子になったばかりのベートーベンにまで目が行き届いていなかったため、ベートーベンとの師弟関係は僅か一年に満たないものになります。

ベートーベンも後年「ハイドンから学んだことは何もなかった」と述懐しており、ベートーベンには実りの少ない時期であり、雌伏の時でもあったといえます。 ベートーベンは、モーツァルトを尊敬していて面会の機会を得た時に弟子入り志願を行っていたことは有名な話です。

ベートーベンもモーツァルトも音楽家の父による薫陶を受け、少年演奏家としてデビューしたという共通の過去を持っているからです。 もしも、ベートーベンに母の病気がなければ、モーツァルトの急逝がなければ現在の音楽界は大きく変化していたのかもしれません。

音楽史においては、ベートーヴェンの死を以って古典派時代の区切りとしていますが、ベートーヴェンは古典派音楽を代表する音楽家であると同時に、ロマン派音楽の基礎をも築きました。

年末になると、ベートーヴェンの最も有名な曲である交響曲「第9番」が日本各地で演奏されますが、合唱される「喜びの歌」は19世紀の詩人シラーの作であり、この「第9」はベートーヴェンらしい人間愛に満ち溢れた曲に仕上がっています。

従来の音楽家たちは、宮廷や有力貴族に仕えていたため、それら雇い主の依頼されるままに作曲していましたが、ベートーヴェンは自立した音楽家であったため、そのようなパトロンとの主従関係を拒み、自主独立した音楽を作曲していました。

上記以外の代表作品は、3大ソナタと呼ばれているピアノ・ソナタの「第8番ハ短調(悲愴)」、「第14番嬰ハ短調(月光)」、「第23番ヘ短調(熱情)」やポリフォニー技法を採用した弦楽四重奏曲「大フーガ変ロ長調」があります。

また、ベートーヴェンの音楽は、古典派からロマン派への橋渡しを行ったと言われています。 それでもベートーヴェン自体はウィーン古典派に属する最後の巨匠と見るのが普通であるからです。

それは1802年と1818年頃のベートーヴェン自身の2度の危機の際、当時頭角を現しつつあったホフマンなどのロマン派には興味を示さなかった。 むしろハイドンとモーツァルト、そしてバッハの遺した、ソナタなどの音楽形式や、調性と対位法に集中し、それを活用する道を選んだからであります。

危機を乗り越えて進化する作風 1802年の1度目の危機とは遺書「ハイリゲンシュタットの遺書」を書いた精神的な危機である。 ベートーヴェンはこの危機を、ウィーン古典派の形式を再発見する事により乗り越えた。

つまりウィーン古典派の2人の先達よりも、徹底して形式的・法則的なものを追求した。 この後は中期と呼ばれ、コーダの拡張など古典派形式の拡大に成功した。

つまり、交響曲第3番「エロイカ」やピアノ協奏曲第5番ような壮大な作品においても、交響曲第5番やピアノソナタ第23番のような圧縮された作品においても、 和声の法則と堅固な形式だけは、ベートーヴェンにとって侵す事のできないものであり、これの活用によってめざましい成果を得たといえます。

中期の交響曲はスケルツォの導入(第2番以降)や従来のソナタ形式を飛躍的に拡大(第3番)、旋律のもととなる動機やリズムの徹底操作(第5、7番)、 標題的要素(第6番)など、革新的とも言える技法を編み出しています。

その作品は、古典派の様式美とロマン主義を極めて高い次元で両立させています。

音楽の理想的存在として、以後の多くの作曲家に影響を与え、第5交響曲に典型的に示されている「暗から明」「苦悩を突き抜け歓喜へ至る」という図式は劇性構成の規範となり、後のロマン派作品の多くがこれに影響を受けました。

ベートーベンが活躍する前の音楽家たちは、貴族や宮廷に仕え、公式や私的な行事の際に曲を作るのが一般的でした。

ベートーベンは天才音楽家のモーツァルトに憧れを抱きますが、彼は幼いときからヨーロッパ中を旅しています。それは、仕える貴族や宮廷を探す旅行でもありました。 しかし、ベートーベンは貴族や宮廷のパトロン的な関係を拒みます。

貴族や宮廷のために作曲するのではなく、大衆に向けて作品を作る音楽家として活躍します。ベートーベンの芸術家としての態度は、音楽史において大きなポイントとなってきます。 ベートーベンに影響された音楽家の1人にワーグナーがいます。

ワーグナーはベートーベンの「交響曲第9番」に触発されて、ロマン派音楽として押し進めていきます。 管弦楽法をもちいて音響の効果を大きくしたり、ベートーベンがもちいた古典的な和声法から、革新的和声へと発展させていきます。

ブラームスもワーグナーとは違うところで、ベートーベンの影響を受けています。ブラームスはベートーベンの古典的な音楽形式を受け継ぎます。 ロマン派音楽が主流の時代の中で、ベートーベンの古典派を守っていました。

しかし、ブラームスの曲も古典派を保持しつつも、旋律や和声などではロマン派の特徴も現れていたようです。 なお、ベートーベンは旧来の古典派に属する楽曲だけでなく、晩年には革新的な様々な試みをおこなっています。

その意味で、彼の半生は古典はというよりロマン派に属するという見方もあります。 ベートーベンは、音をつないでピアノに歌わせる、「レガート奏法」の導入や、 「重厚」、「雄大」への挑戦など、当時のピアノでできることを限界まで試しました。


変化する音楽

そして、ベートーベンのアイデアがピアノの技術者達の更なるレベルアップを 促すこととなり、この時代は楽器と曲、双方が大きく動いた時期でした。 ピアノの進化は、ベートーベンの曲にも変化を与えました。

ベートーベンの1番~20番までのピアノソナタは、ドイツ式のワルターピアノによって書かれていました。 当時所有していたピアノは、鍵盤数が61鍵 (5オクターブ) だったため、曲もその音域内に収まっていたのです。

しかし1803年、ベートーベンの元に、フランスのエラール社のピアノが届けられると、ベートーベンの作風は明らかに変化します。 ワルトシュタイン、熱情といった、ダイナミックレンジの曲を次々と書き始めるのです。

このエラール社のピアノは、イギリス式で、重厚な音が出せたため、このような作風の変化が現れたのでしょう。 そして、1817年には、47歳の誕生日プレゼントとして ブロード・ウッドのピアノも受け取りました。このピアノは音域が6オクターブある新型で、 ベートーベンはこのピアノで後期のソナタ作品を作曲しました。